カガミ
例えば、簡単な例をあげると、自分より背が高い人がいてはじめて自分は背が低いって自覚することになる。
自分より理論派の人を目の前にしたとき、自分は感覚的な人と自覚するのかも知れない。
その様に誰が傍にいることで、自分自身を知ることになる。
僕の仕事はデザイナーだけど、デザインとはニーズをカタチにする仕事と僕は考えていて、ニーズとはお客様ご自身の中に存在するモノで、僕の中にあるモノではない。
お客様ご自身の中にあるモノなんだから、自分で引き出してカタチにしちゃえば、僕なんか必要ない。
でも、僕のような仕事が存在するのには、自分以外の人がいてはじめて自分を知ることができるから僕も必要とされている。
つまり僕はお客様にとってカガミみたいなモノなんだ。
僕というカガミに映る自分自身が認めたくないモノを写しだしたとしたら?
お客様や相手が僕がいることで嫌な自分や、向き合いたくない自分を見つける結果ばかりになってしまうとしたら?
きっと僕というカガミに自分を写し出さない方がいいのかも知れない。。。
しかし、カガミに映るのはあくまでも自分自身。
カガミのせいにするのは、滑稽だ。
それに、カガミを覗き込んだ時、あえて自分自身の気に入らない部分ばかりに目をやるってのは、どんなカガミを持って来ても、一緒ではないだろうか?
また、例えば先ほどの例をもう一度引用すると、背が低いことを背が高い人から劣っていることとの理解の仕方って…どうなんだろう?
仮に自分の嫌な部分がカガミに映ったら、それがどうしても嫌なら、変える努力をすればいい。
ちなみに僕の考えはこうだ。
背が低いことも、耳が大きいことも、気に入るか気に入らないかはそれぞれにあるとしても、それらは全て個性で、個性単体では良いも悪いもなく、、、
あるのは個性を生かすか殺すかだということ。
今日はそんなことを考えていました。
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by ecru-societe | 2012-05-16 01:30 | 日記 | Trackback | Comments(0)