ボーダー(線)
「損得無しに付き合える」
とよく言います。
自分は仕事上(社会人になってから)の友人も同じなんですが、一般的には違うのでしょうか?
損得じゃなく共存共栄を図っていく仲間なんで、そういう意味ではいつの時期に出逢っても違いが無いんです。
今日はそういう話じゃなく、どうして線を引きたがるって話なんです。
例えば学生の頃の友人と仕事上の友人ってのもそう。
例えば生産者と消費者。
生産者も消費するじゃないですか。
でも線を引いて考えるんですよねぇ~。
「生産者が消費者の立場にたっているのか?」
「生産者側にたった経営ではなく消費者側にたった経営を!」
とか言うんですが、生産中は生産者で消費中は消費者のことしか考えられないから線を引くのですかね?
そんな感じで、いつも集まる学生の頃の友人にも意味のない見えない線を引かれているのを感じるのです。
それは経営的立場とサラリーマンという線。
やっぱりその線も会社のことや色々なことを考えると全く無意味な線で・・・。
でも、その発想が経営者側の発想と言われてしまうのでしょう。
あるのはそれぞれの役割で、線を引いてしまうのが一体何の役に立つのか?
本当にそう思います。
その線は何の為に引いたのか?
「あなたとは違うんだから」との意味合いなら、コミュニケーションを交わす意味合いを全て否定された気がしてしまいます。
経営的立場とサラリーマンという線。
どうすれば消せるのでしょうか?
まさか会社だけじゃなく、学生の頃の友人との間で悩むとは(笑)
むしろ会社の方がそんな線がほとんど観られないのに・・・。
学生の頃の友人の間で感じるのか?
いずれにせよコミュニケーションを重ねて、そのボーダー(線)を取り除いていくしか共存共栄を図る方法は無く・・・。
コミュニケーションを継続させるのみです。
あらゆるボーダー(線)が人を苦しめ。
争いをつくり。
悲しみを重ねます。
ボーダーの無意味さに気付き、ボーダレスになれば、きっと人はもっと幸せになれると思うのです。
だから今日もコミュニケーションを続けます。
いつかボーダレスになることを信じて。。。
by ecru-societe | 2007-09-18 00:00 | 日記 | Trackback | Comments(4)
国際から業際・学際に至る迄、ボーダレスの時代へ
小さく論じられないグローバル化の時代を象徴する言葉です。
技術的には、
「突出した一つの技術で市場を独占できる時代の終焉
何種類かの技術の融合で初めて技術革新が可能になる」
時代への投入です。
ボーダレスと、「立場」とははっきり違います。
多様化する社会にあって、益々、どの立場で物事を判断するかで
その結果が大きく異なってくることになります。
建設業は、最終ユーザーをはっきり意識する
基本的な立場を誤ってきました。
そのツケがこの状況に繋がっていると思います。
しかし、最終ユーザーも多様化です。
仏教思想の根本は中道にあります。
この中道は中庸ではありません。
相反する両極端を経験した釈迦が説く法の道(八正道)です。
ビジネスでは、相反する両極端を併せ持ち局面で正常に
使い分けるバランスになるのでしょう。
「立場の観点」を忘れるわけにはいきません。
また、それを容認しなければなりません。
観点を変えるなら、立場を変えなければなりません。
目的が共通であることを気付いていなかったり、あまりに船が大きすぎて同じ船に乗ってることを忘れているのかもしれません。
まるで地球と言う船に乗ってるいて、広い意味での地球環境を自欲の為におかすみたいに。
不二家の事件は消費者が生産者と別の生き物と錯覚したことによって起こったのではないかと思います。
生産者の方のご家族が、友達の誕生日会で不二家のケーキを食べることを想像できないのは、消費者と生産者が別と線を引いているところにあるのでは無いかと思います。
コミュニティーが狭いと色々問題も有りますが、色々気付くこともあります。
コメントありがとうございます。
なるほど!
そうですね。
先ず、自分が立てないとダメですからね。
誰かを傷つけるんじゃなく、守るためですね。
守る方法はきっとたくさんあると思います。
最善の方法を探究していけば、傷つけたくない誰かを傷つけることなく、自分を守る。
いや、自分とその誰かと共に発展していけるかもしれませんね。
共存共栄が図っていけるはずです。