僕は立派な両親に育てられた。
父は多くの方々から先生と呼ばれて、毎年とんでもない数の年賀状が届いた。
母は僕に「父のようになりなさい」「その為に勉強しなさい」と言い続け、厳しくした。
褒められる事は少なく、むしろ貶された事を記憶している。
一方妻も、立派な両親に育てられた。
夫婦共に公務員で、家もシッカリしており、大切に育てられたそうだ。
僕とは真逆で、褒めて育ててもらい、自分の事を貶す人がいたらおかしな人だと感じ、意味が分からなかったそうだ。
逆に僕は、学校で先生に褒められても、容易には信じられなかった。
ある日、国語表現の先生に「お前は、表現力がある」「文章の才能がある」と言っていただいた時も、小学生の頃から父に「お前は国語が出来無い」と言われていたので、手放しで喜ぶ事が出来なかった。
大学時代なんかは、教授に気に入られているのに気付かず、つい数年前まで、いじめられていたとすら思っていた。
大学時代の同級生に「何を言ってるの!」と叱責されて、教授のお気持ちを教授が亡くなられてから知るという、残念な思いをした。
とは言え、教授の事は学生の頃からずっと尊敬しており、今でも教授に教わった事を大切に考えて仕事にのぞんでいる。
っとまぁ、こんな具合で、僕は褒められる事にどうも疎い。
今日考えたのは、どんな風に子供たちなどに接するのか?
接し方の違いによって、様々な違った影響はある。
ただ、接し方や影響に、良いも悪いも無く、それはあくまでもその人の接し方であり、ただそれだけの事で・・・受けた影響は単に経験でしかない。
経験をどう活かすかは自分にかかっているって事。
直ぐに分かれば良いって訳でも無いし、ずっと分からない事がダメって訳でも無いかも知れない。
どんな状況も経験も、自分次第だって事は確かな事だから。
(どんな風に子供たちなどに接するのか?を)考えてみても、仕方のない事だった。
ありのままが良い。
いや、それしか出来ない。
僕の場合、トラウマって程では無いけど、呪縛みたいなモノから解放されて、自分の歩みを始められたのは、諦めた事からかも知れない。
幼い頃から母に「父のようになりなさい」と言われ続けた事で、僕自身が形成した檻のような物。
基準と思っていた事。
それを支えきれなくて、諦めて、土俵を降りた。
その時、やっと自分の土俵に立ったんじゃないかと思う。
大きな傷は、僕にも周りの人たちにも残してしまったけど、(僕が言っては、おかしくなるけど)それも含めて経験で・・・僕自身は、それを活かして今がある。
溺れた時、這い上がろうともがいている間は沈み、もうダメかもと諦めて脱力した時に浮上して助かるって事があると聞く。
そんな感じかな?
諦めて、自分を受け入れたら、生きて行ける気がした。
そんな感じ。
誰かの期待に応えて生きる事も、自分として生きる事も、どっちも大変なんだけど、比較的どっちが向いてるか?って事で選べば良いんだと思う。
僕は、誉められもせず苦にもされず、そういう者を選択しています。