もし誰かの事を、(あまり好きな言葉じゃ無いけど)信じていたとして・・・
その信じていた誰かが、例えば倫理的では無い信じ難い行動をした時。
あなたはどんな風に考えて行動するか?
♪ 信じられぬと嘆くよりも 人を信じて傷付く方がいい ♪
一聴すると清く正しく美しい様に思えるかも知れない。
でも僕は、そうとも思えない点もある。
それがどこか?
一般的な「信じる」が、あまり好きな言葉では無い理由。
そのポイントにある。
あまり好きな言葉では無い理由・・・
そもそも、一般的に「信じる」なんて、自分にとって都合の良いレンジ(間)に使う言葉。もしくは抑止力を有効にする為に発している言葉。
もし「信じる」を、本来の意味で使えたとしたら、「贈る言葉」の歌詞のような事にはなり得ない。
どういう事か?
「傷付く方がいい」という歌詞について
傷付く可能性を想定している時点で、単に自分にとって都合の良い状況を相手に期待していたに過ぎない事が明白だ。
信じている誰かが、例えば倫理的では無い信じ難い言動をとった時。
「信じられない!」と嘆いたり傷付いたりしているのは、渦中の信じている誰かの立場を考える訳では無く、自分にとって都合の悪い雰囲気に、自分が良ければいい言動をとった結果。つまり、自分にとって都合の良い状況を相手に期待していたに過ぎない事が解る。
(視点が自分に有り、相手の立場に立てていない点)
「自分が良ければいい」
その事自体は全く悪くない。
むしろ当然の事。それでいい。
でも問題は、「自分が良ければいい」そう思っている事を突き付けられた時、反発したり自覚が出来ていないその状態にある。
「信じる」の本来の意味を理解した時。
信じている誰かが、例えば倫理的では無い信じ難い行動をとった結果に対して。
自らがとる行動は大きく違って来る。
先ず・・・
「きっと自分の知り得ない意味が存在するのだろう」
とか
「何か大変な事に巻き込まれてはいないか?」
とか
自分の信じる誰かを当然に「正」とした視点からの言動となるはず。
「信じられない」
とか
「傷付いた」
とかは
自分の都合が悪くなったという意味に他ならない。
「自分が良ければいい」
それはいい。
でも自身がそうしている事を知る必要はある。
相手の目線に成れない。
眼球は自分についている。
そう知る事も必要だ。
「信じる」
基本的に自分以外の人に使わない方がいいと感じる。
もし使うなら、意味を深める必要がある。
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