妻はポンコツ。
そんな妻に対して僕は、自分でもよく解らない絶対的な信頼感なのか安心感の様なモノを、いつもは強く自覚せず気付けば感じている。
とても表現するのが難しい。。。
要するに・・・基本的に人として間違わない事を疑わない。
つまりは、単純に余計な心配もしないし間違い無いと思っている。
簡単に言うと「正しい人」と認識している。
しかしこの「正しい」と言う言葉。
実は妻をイメージする際には、全く一致しない言葉だ。
妻はしょっちゅう言葉を間違える。
しょっちゅうウッカリしている。
つまり妻はポンコツ。
なのに基本的な軸の部分を疑わない。
一方で、いつも正しく生きようと頑張っている人がいる。
正確な言葉を使い、規則正しい生活をおくり、隙がなく精進している人だ。
正義感が強く、曲がった事が嫌いで、悪を許さない。
普通に考えるとそう言う人を「正しい人」と称して信用のおける人物となり得るのだろうけど、妻を表現する時、上記の内容はあまり一致したように感じない。
また、上記の人物に安心感を覚えない。
その事から気付いたのだが、「正しい人」で安心して信頼出来、共に歩もうと思える人とは、清く正しい考え方でいる、いつも間違えない人では無く、清く正しい考え方でいる、時々間違える人なのかもしれないと感じた。
間違える人は、自分が不十分である事を知っている。
逆に大概間違えない人は、正しくある様に誰よりも努力している。
この違いは、間違ってしまった他人への接し方に影響する。
自分が不十分である事を良く知っている人は、間違ってしまった他人に対してお互い様と思いやすく、そこから自分の出来る事(フォロー出来る事)を探しやすい姿勢(体勢)にある。
一方、正しくある様に誰よりも努力している人は、間違ってしまった他人に対して「努力を怠っている」と認識しやすい状況にある。
その為、自分の出来る事を探すより先に、相手を軽蔑したり、酷い場合には罵声したりと共に歩む姿勢は感じられない。
論外は、自分が不十分(いい加減)なのに他人に完璧を求める奴だが、、、
正しくある様に誰よりも努力している人は、自分が完璧では無いから完璧に近付ける様、努力している。
つまり人は、どこまでいっても不十分なのだ。
だとしたら、先程述べた論外の人とその前に述べた努力を怠らない人は五十歩百歩という事になる。
常に正義を味方とし、間違えの無い様に努力を怠る事の無い人。
それでも人間なので間違える時もある。
だから誰かが間違えたりした場合、そこから自分のできる事を探す。
決して人を責めたりしない。
そんな時間は無い。
生産性のない無駄な事。
そう知っている間違える事もある人が、共に歩むべき人なのかもしれないと僕は思う。
妻はポンコツ。
妻程では無いにしろ、僕もポンコツ。
イヤ、冗談。
僕にないものは妻が持つ。
妻にないものは僕が持つ。
共に歩むべき人。
常に正義を味方とし、時々間違える人。
責める暇があれば、(愚痴りながらも)自分の得意な事でフォローしている人。
にしても妻はポンコツ。
共に歩むべき人。