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「信」とは、嘘偽りのない『誠』のことである?!

「信」とは「言行に嘘偽りのない『誠』のことである」
「信義」「信用」「信頼」「信託」・・すべては『誠』から発している。
「信」という文字は、「人」と「言」からなり、「誠」は「言」と「成」からなる。

金八先生
授業みたいですねw

実際は本当にそうなんでしょうか?

嘘偽り無く『誠』を尽くされても、相手の言うことが理解できない(専門的で難しいなど)場合、信じていいのか否かを判断できず、「知り合い」や「友」などにそれが『誠』か否かを判断してもらう。
そんなコトってありませんか?!

ここで付け加えておく。
信頼関係を築いていかないといけない環境下において、相手が信用できないのは相互に問題があることで、一方が悪いと言うわけではない。
だから、「知り合い」や「友」などに確認をすることは、一方的に悪いことではなく、双方に問題があると自分は思う。


しかし、「知り合い」や「友」が、なぜ理解できたり正しい判断が出来たりするという確信をもてるのでしょうか?
「知り合い」や「友」だからウソを付くと言うことは考えたくないし、実際、そんなはずはない。
そこが信じれないとしたら、世の中こんなに淋しいものは無い。

ただ、ちゃんとした知識の基、正しい判断が出来るのかは、善悪に起因するところではなく、能力に起因することで、、、そこ(能力)を判断するのはこれまた難しい。
その人が高いレベルの知識や技能などといった技術的価値を兼ね備えているのかを判断するのはプロからしても難しく、だからこそ様々な分野で1960年代頃からTQCTQMなどによる工業生産製品での性能の確保をしてきたのだと思う。

「知り合い」や「友」は過ごした時間が長かったり、なぜか同じ大学を出ているだけでより親しみがわき、『信』のレベルが上がったりもするが、『知識や技能』はそうはいかない。

だから『数字』などで話をするのだが、そんなものは「知り合い」や「友」に比べれば信頼性に欠けると感じる人もいうようだ。
保険会社より知り合いの方が信頼できると言う人も。。。

『信』は『誠』の上に成り立っていることは、本当はそうであると自分も思う。
しかし、『誠』とは自分自身の中にあるモノで、その力やその真やその正は自分自身の範囲内でしかなく、自分の能力を超えて『誠』を手にすることはできず。
その能力とは単に知識だけではなく、センスや人間力などといったものも含み。
当たり前のことかもしれないが、人によって違うモノだと思う。

逆に言うと、だからこそ同じ『誠』を共有し、その『誠』の上に成り立つ『信』を相互に感じることが出来る仲間はかけがえの無いモノだと思う。

  by ecru-societe | 2007-02-28 06:28 | 日記 | Trackback | Comments(0)

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